全国各地で宿泊施設の開発・運営を行っているホテルプロデューサーの龍崎翔子さんが、フィールドワークという名のホテル巡りを重ねて出会った、ホテルの定義を拡張している宿を紹介するエッセイ連載。最終回となる第4回は、京都・比叡山山頂に佇む世界遺産・延暦寺の営む宿「延暦寺会館」で毎年冬に行われる『比叡山 寒行の集い』という特別な宿泊体験に皆様をご案内します。

この頃、私は普通の宿泊施設での体験には満足できなくなっていた。
お客様として丁重に扱われ、自由自在に振る舞い、暴飲暴食し、快楽のかぎりを尽くして過ごす。そんなお客様思いの宿泊体験ではなく、日夜を跨いで何らかの別世界に浸るようなそんな体験がしたいと思い始めていた。
そんな時に見つけたのが、比叡山の『寒行の集い』である。『寒行』とは、読んで字の如し、冬の寒い季節に催される仏教僧の修行のことで、厳しい寒さに耐えながら苦行を行うことで功徳を得られると信仰されている。今回のこの宿泊企画は、延暦寺の種々の仏教修行...座禅、写経、読経、勤行、参拝...を一般人が体験することができる期間限定の宿泊体験のことらしい。
日頃より、資本主義に翻弄され、人心の寄る辺なさに心を乱されていたわたしは、出家を願う平安貴族もかくやという思いで、『寒行』という文字の並びにえも言われぬ煌めきを感じ、比叡山延暦寺の山門を叩くこととなったのだった。
開催日程は年4回、申し込みはFAXか郵送のみ、というなかなか高めの参加ハードルをくぐり抜け、宿泊案内を無事郵送で受け取った私たちは、飽食の令和の時代に山籠りをすべく意気揚々と比叡山延暦寺に乗り込んだのだった。

延暦寺会館の客室の様子。どことなく昭和時代の『国際観光ホテル』みたいな佇まい。

昔ながらの温泉ホテルのような雰囲気の客室。売店で売っているワサビ味のおかきが美味しい

床の間の飾りにここが仏教施設だということを実感させられる

年季の入ったハンドタオルのロゴが可愛らしい
たどり着いた『延暦寺会館』は、その物々しい名称のわりに馴染み深い昭和の観光ホテルのような佇まいで、思わず拍子抜けしてしまった。
事前にもらっていた参加者のしおりを見やると、滞在中の流れは下記のようだった。
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1日目
12:00 受付開始(フロント前)
13:00 日程説明
14:00 開講式
14:30 写経三昧
17:30 夕座勤行
18:00 夕食
19:00 坐禅説明
20:00 入浴・放心
2日目
5:30 覚心(起床)
5:50 集合(フロント前)
6:00 坐禅止観(書院)
7:00 朝座勤行(根本中堂)
7:50 朝食
8:50 法話
9:50 参拝・根本中堂改修工事見学
11:30 昼食
13:00 お経のお話
14:30 写経三昧
17:30 夕座勤行
18:00 夕食
19:00 延暦寺僧との座談会
20:00 入浴・放心
3日目
6:00 覚心(起床)
6:30 朝座勤行(延暦寺会館内)
7:30 朝食
9:00 写経三昧
11:30 写経奉納式~閉講式
12:00 お坊様と昼食・解散
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とにかく写経と勤行のオンパレードの3日間である。

参加者には、背中に『寒行』と書かれた白衣(びゃくえ:修行用の衣装)が手渡され、期間中はそれを着用して過ごす
仏教修行ができる寺は日本各地にあるが、今回比叡山に心惹かれたのは、延暦寺が「日本仏教の母山」つまり、平安時代より続く仏教の総合大学であるからに他ならない。浄土宗、臨済宗など今日の私たちにとって身近な宗派はいずれも天台宗で学びを得た僧侶たちが仏教を民主化するためにその修行法を洗練化・簡素化させたものがほとんどであり、つまるところ、そのルーツとなった天台宗の修行には、写経も、読経も、座禅もある、仏教修行の幕の内弁当と言っても過言ではない。
中でも、延暦寺の修行といえば、比叡山中の40kmにもわたる行程を1日で踏破するのを1000日間休まず続ける『千日回峰行』が有名で、延暦寺会館にはそれを一晩分だけ体験する『一日回峰行』という宿泊企画もかつてはあったという。
今回の寒行はそこまでハードではないものの、この3日間のメインプログラムは延々写経をし続ける『写経三昧』で、なんと累計8時間半もの時間が充てられており、多忙な会社経営者としての私の貴重な休日のほとんどはこの経文たちと向き合う精神修行に溶けていくこととなった。

お堂に集合してオリエンテーション。参加者は25名ほど、40-50代の女性が中心だが男性の姿も見える

硯で墨を刷って、小筆で和紙に文字をしたためる作業はいい作業瞑想となった

気づけば姿勢が悪くなるのをものともせず、一心不乱に文字を書き写し続けていた
写経とは、印刷技術の未成熟だった時代に、仏陀の教えを広めるために経文を書き写すこと、つまり仏教の拡大に貢献すること自体を修行と見なしていたことに由来する、と教わった。
薄い半紙の上からお手本を書き写すだけだから簡単でしょ〜と当初は思ったが、筆遣いに慣れていないこともあり濃淡や字のテンションにどうしてもムラがでてしまう。上手に書いてやろう、周りより早く書いてやろうという欲深さも字面に滲み出て、次第に鼻につくようになる。一緒に写経をしてくださっているお坊さんの書面を覗いてみると、一貫して安定感のある筆致で、こういうところに修行の積み重ねの差が歴然と現れるのかと感嘆した。
3時間の写経はさすがに飽きるのでは、集中力が持たないのではと当初は懸念したけれども、こうして己と葛藤しながら、そして無心になりながら一字一句を追いかけて過ごしているうちに、深い海に潜っているような瞑想状態に没入し、気づけばあっという間に夕食の時間になってしまっていた。

修行の様子を写真に収めてくれており、ラウンジのモニターで流してもらえる心遣いも

食事会場への道中では、合掌をしながら鈴の音に合わせて一列になって移動する。現代的なホテル建築とお揃いの白衣の異様さもあいまってかなりシュールな光景

食事会場のステージ正面には仏壇が設置されていた
仏教修行の世界では、食事もまた修行であるという。
まず、口にするものは動物性のものを完全に排除した精進料理。加えて、食事の前には『生飯(さば)』といって、飢えた人々や鳥獣に施すために自分の茶碗の中から米粒を7粒ほど取り分ける。食事中は一切音を立ててはならない。皿に食べ物の痕跡が全く残らないよう食べ終えられるよう、汁物で注ぎ洗いをし、たくあんで皿の汚れを拭き取りながら食べる。そして、食事の前後には読経を行う。
広々とした会場に白衣を身に纏った大人が30人ほど集まり、無言で音をたてずに食事をする光景(少しでも音がするとお坊さんが優しく苦言を呈してくれる)。「食事をする」という日常のありふれた光景の中に、未知の設えや作法、しきたりが生じることで、どことなく緊張感の漂う非日常体験になることを実感した。

食事の前に全員で読経するための経文

食事は全て植物性由来の精進料理。日頃の暴飲暴食に順応した私の胃腸にはもちろん物足りない
こんな感じで1日目のプログラムは終了した。
修行と言いつつ、お客様の体調や体力に配慮してくれているのか、プログラムとプログラムの間に毎回20-30分ほどの自由時間があるので毎回部屋に戻ることになる。参加者への配慮と本格的な修行としての匙加減からか、とにかく緩やかな拘束が続く。
限られた時間の中で、部屋でできることも特にないので、ダラダラと布団に横になってスマホを観て過ごす。ワーカホリック故に、こんなゴロゴロしてていいんかなと一抹の不安がよぎるが、非日常体験のオンパレードに脳が疲れているのか、何かをしたいという気分にもならない。
大浴場で風呂に入り、そのまま眠りについた。

館内には参加者の邪な心を湧き立たせる自販機も設置されている
翌朝は5:30に覚心(起床)する。
身支度を整え、フロント前に集合し参加者で整列をして、座禅会場となる延暦寺大書院へと向かう。冬の寒く暗い朝に、白い法衣を身に纏った老若男女が延暦寺の境内内を整列して歩く姿。端的に言って異様である。
余談だが、この大書院は、武田五一という明治期に関西で活躍した著名な建築家が設計した日本建築で、通常は非公開とされている施設のため、個人的にはなかなか見所が多く楽しめた。

1時間ほどの坐禅止観(瞑想)を終え、今度は根本中堂での朝座勤行へ。
大書院では、ストーブを焚いていただいていたが、根本中堂は完全に半屋外となっているので普通にくそ寒い。外も真っ暗だし。ささやかながら、寒行の過酷さを実感できた瞬間である。
根本中堂の中の方では、お偉方と思われる僧侶や若手と思われる僧侶が儀礼的な作法を繰り広げており、まじまじと観察していると人間模様も垣間見えてなかなか面白い。案内役のお坊様から丁寧に朝座勤行についての説明を受け、参加者たちも手元の経文を一心不乱に読み上げる。
僧侶たちの野太い読誦の声にトランス感すら感じながら読経すること、1時間。
2時間以上の及ぶ極寒での修行を終え、ついにお待ちかねの朝食である。

延暦寺公式HPより引用

か、粥...!
お腹が空きすぎてこんなんじゃ足りないよ!😭
と思いながら食べ始めたものの、滋味溢れる味わいをじっくり感じていると、意外と食べ終わる頃には十分な満腹感を感じられていた。延暦寺の精進料理はちゃんと美味しいので、量になれて味わう余裕が出てきたのだろう。
それにしても、この食事量で実際に修行に励む成人男性は満足できているのだろうか、甚だ疑問である。

食後は、現在改修中だという根本中堂の見学へ。10年以上かけて本堂の屋根の銅板葺きや塗装彩色の修理が行われているという。朝座勤行をしていた頃はまだ薄明かりだったため全体像があまり見えていなかったが(どうやら工事をしているらしいということは感じられた)、日が登ったことで世界遺産の工事現場をじっくりと見学することができた。


見学を終えて外に出ると、新キャラのお坊様が登場していた。
この方のトークスキルがとにかく高く、かつて中世の時代にお坊様が圧倒的なスター性・カリスマ性を纏っていたというのも頷ける気持ちになった。

お坊様のありがたいお話に思わず手を合わせる参加者たち
延暦寺内のその他の名所にも参拝に連れ出していただいた。もはやほぼ観光ツアーである。
他の参加者の方々もリラックスした感じで自由に会話したり歩いたりしている。
聞き耳を立てていると「私、昔は空海派だったけど、年取ってから最澄の良さが分かるようになってきたわ〜」とか、「今日の〇〇を担当してくれた〇〇っていうお坊さん、以前は本当に新人って感じだったけどしっかり中堅に成長してて驚いちゃった」という会話が繰り広げられている。
推し活。
仏教修行の場にきてもなお繰り広げられる推し活。
かつて枕草子で清少納言が「顔がいいお坊さんの説法しか聞く気にならない」といった趣旨のことを書きつけていたが、その頃から全く変わらない人間の性。
そしてマウンティング。
敢えての最澄アピール。昔からお坊様と繋がりあるアピール。
寒行界隈という新たなコミュニティを発見した瞬間である。

さて、お待ちかねの昼食だが、この頃には完全に身体が精進料理の食生活に順応したのか、不思議なことに全く空腹感を感じなくなっていた。
昼食のこの湯葉カツ丼が、肉のように感じられた。
実際、同行者は最後まで肉だと思って食べ終えていた。
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そんなこんなで、2日目は午後から夜にかけて写経や法話や勤行を数時間かけて行い、ついに最終日、3日目に突入する。
寒行中最後となる写経にも精が出る...!

初日より圧倒的な集中力で写経を書き上げる
休憩時間に併設のカフェで邪なおやつも食べてしまう...!!!

比叡山延暦寺の経営するホテル『ロテル・ド・比叡』が星野リゾートの運営だった頃の名残と思われる梵字ラテも注文
そして最終日は精進料理が豪華になっている!
いつもとは違う景色のいい食事会場で、お坊様と一緒に食べることができる!!
そして、修行ではないので、会話ができる!!!

ここでようやく、他の参加者の方々とじっくりお話しをすることができた。
40-50代ほどの女性が多く、複数回参加をされてきている方も多いようだった。中には、過去に大病を患ったことを機に、宗教への興味が湧き、比叡山の仏門を初めて叩いたという方もおられた。
なるほど、私のような物見遊山というよりも、それこそ仏道に帰依するような気持ちでこの地に足を踏み入れておられている方もきっと多いのだろう。
最後には、写経の奉納式、閉講式が行われ、あたかも卒業証書授与のような賞状と、オリジナルの数珠が記念品として贈られる。この数珠は、聞けばなんと次回参加する際に珠の色を1つずつ変えてもらうことができるらしい。...なるほど、なんというマーケティング施策。
よくよく考えてみれば、仏教などは1500年以上にわたって、多くの人々の信仰を集め続けているわけで、マーケティング施策の方向と言っても過言ではない。
今更ながらあたりを見渡すと、人によって白衣にオリジナルの袈裟をつけている人がいたり、襟元が使い古したように汚れていたりと、装いから百戦錬磨の猛者感が滲み出ている。改めて自分の白衣を見てみると、新品のように白く糊がパリッと効いていて何とも素人みがあって恥ずかしい。
こうして、私も少しずつ寒行界隈の一員として新たなコミュニティーの価値観をインストールさせられるのを実感した。



お世話になった僧侶たちに別れを告げて、比叡山の山を降りると、そこにはいつもの京都の街の光景があった。さっきまで経文に向き合い続けていたこと、お坊さん達と山にこもっていたことが、遥か遠くの記憶のように感じられる。あの時間は一体何だったんだろうとおぼろげな記憶を振り返る。現世を離れて、宗教の世界に没入する、そんなひと時の逃避行だったのだろう。
後日、会社メンバーに会ったときのこと。私の顔をまじまじと見つめながら「翔子さん、何かスッキリされました?」と尋ねられた。え、なんでわかるの?と思いながら比叡山で山籠りをしたことを伝えた。精進料理だけをいただいて過ごしていたこと、仕事を離れて作業瞑想に没入していたこと、そして意味もなく布団でダラダラしていたこと、山の澄んだ空気の中で過ごしたこと。そのひとつひとつが、いつの間にか私の血肉になっていたのかもしれない。
さて、次はいつ再び寒行に行こうか。
【研究結果:ホテルとはサンクチュアリである】
人里から隔離されて暮らす。そこに信仰があり、暮らしの場がある。その狭い異境のようなコミュニティの中で人は適応しながら過ごす。日常のルーティンを離れ、その空間のルールとコミュニティ価値観の中で過ごす。そんな日々が続くうちに、人は少しずつ姿形を変えていく。ホテルはサンクチュアリである。世知辛い現世からも、奔放な俗世からも離れ、ひとつの精神世界に没入する旅。そこで私たちはまた少しだけ新陳代謝するのである。








