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鳥取・大山麓に佇む、スープ屋を営む夫婦の美意識に浸る宿
ホテルプロデューサー
龍崎翔子

全国各地で宿泊施設の開発・運営を行っているホテルプロデューサーの龍崎翔子さんが、フィールドワークという名のホテル巡りを重ねて出会った、ホテルの定義を拡張している宿を紹介するエッセイ連載。第3回は、鳥取・大山の麓の森の中で、スープ屋を営んでいた夫婦が新たに始めた宿、「森のスープ屋の夜」に皆様をご案内します。

空間には、人の生き様が現れる。


部屋の中に置かれているものを見れば、几帳面な人、大雑把な人...といった性格や気質が分かるというのはもちろんだけど、その人が生活を愛しているか、自分の世界を持っているか、他者との関わりの中でどう生きているのか、否が応に滲み出る。それは決してインテリアが美しいから優れているとか、垢抜けないからよろしくないとか、そんな次元の話ではなくて、その人の生き様と個性、そして人間くさい愛らしさが染み出してくるものなのだと思っている。


だから、人の暮らしに近い宿が好きだ。人の人生が煮詰められた宿が好きだ。食事が美味しいとか、接客が素晴らしいとか、景色や建築が美しいとか、コストパフォーマンスが優れているとか、そういった評価項目とは別軸で、主人の人生観を反映している宿というものに格別の味わいがあると常々感じている。

鳥取・大山の麓にある1日1組限定の宿、『森のスープ屋の夜』はまさにそんな宿だった。


少し変わった名前は、かつてこの地でスープ屋を営んでいた夫婦が始めた宿であることに由来しているという。正直、軽率に友人には薦められない、でも私個人としては泊まってよかったと思える、そんな濃厚さを漂わせていた。


冬の終わり頃、落ち葉の深く降り積もるクロモジの森の中にその宿はあった。出迎える夫妻は、オーガニックコットン(に見える生地)の服を纏い、中でも女主人の方はターバンのようなヘッドピースを身につけていて、その現代社会離れした風貌はどことなくアーミッシュ(アメリカ移民当時の生活を続けるキリスト教徒の集団)のようにも見えた。


敷地内には、三角屋根を載せた素朴な木造の小屋がいくつか配置されており、私たちはまずチェックインのためにレストラン棟に案内された。窓からは西陽が差し込み、空間内を暖かい光で満たしていた。夫婦は聞き取れないほどか細い声で、宿について説明をし、クロモジの森の持つ力を私たちに教えてくれた。

少し離れたところにある客室棟は、こじんまりとした小屋のようだった。暖炉の炎が燃え盛っていて、木枯らしの吹く屋外とは打って変わって、中は夏のように暖かかった。客室の中に暖炉があるのは珍しいなと思っていると、工務店や同業者の反対を押し切って設置したのだと教えてくれた。


やがて、宿の主人が私たちを森の散策に連れ出してくれた。森の中には、ドライハーブの瓶が並ぶ薬草庫があり、『森の瞑想室』と名付けられた広場があり、不思議な土産物や詩集を販売している商店があり、そして夫婦の暮らす家があった。いつかこの家の屋根に、藤森照信建築のように草を生やしたいんだと言葉少なに説明をする主人からは、夫婦のこの森への愛と、生活への誇りが滲み出していた。

部屋に戻ると、夕食の前に風呂に入るように案内された。「泡立たないけど、洗い上がりがさっぱりしますよ」という言葉を信じた私たちは、自家製だというシャンプーとトリートメント、ボディソープを携えて、少し歩いた先にある浴室棟を訪れた。そこは、ユニットバスだけがある小屋といった趣で、浴槽にはクロモジの枝を煎って煮出したという、黒いお湯が張られていた。


湯からあがり、髪と身体を洗おうと改めてシャンプーのラベルに目をやると、溶岩クレイ・マコモ・松・レモン・岩塩...と成分表示を告げる手書きの字が踊っている。思い切って蓋を開けて手に出してみると、己のシャンプーの概念を覆すような、サラサラの茶色い液体が瓶から勢いよく流れ出て排水溝に消えていった。なるほど、と思いながら、わずかに手の中に残った成分を頭皮に塗り込んで、トリートメントとボディソープも同じ調子であることを確認して、私は入浴を終えたのであった。

夕食は、暗闇の中で行われた。私の視界に映る光は、銀色の月明かりと、厨房のガスランプの小さな灯火と、テーブルの上の蝋燭の炎だけである。「私たちは普段から月明かりや星明かりで生活しているので、この明るさで十分なので」と語るオーナー夫妻を尻目に、蛍光灯にLEDに液晶ディスプレイの明かりを日頃から浴び続けている私の網膜は、この暗闇の中でほとんど像を結ぶことができなかった。


夕食はディナーコースで、詩のような言葉の書かれたメニュー表を目を凝らして読みながらどんな一皿が来るのかを首を長くして待ち続けた。コースの3番目くらいに、「光のその先へ」と書かれた一品があり、字面からは全く想像もつかない、一体どんな料理が運ばれてくるのだろう、と空想を膨らませていると、小皿に乗った蜜蝋の蝋燭が運ばれてきて、「次のお料理が来るまで炎を眺めてお待ちください」と伝えられ思わずズッコケそうになってしまったこともあった。

しかし、メインで運ばれてきたスープは今まで食べたこともないほどの絶品だった。グリルされた野菜がたくさん飾られた、お鍋いっぱいのスープ。途中で飽きることもなく、一心不乱に食べた。間違いなく、今までの人生で食べたどんなスープよりも美味しかったと思う。出汁や調味料を一切使っていないというので、一体どうやってこんなに美味しく作っているのかと尋ねると、「朝から長い時間をかけて、ひとつひとつのお野菜をじっくりじっくり炒めて味を引き出しているんです」と教えられた。この効率化の時代の中で、想像を絶する非効率だけが生み出せる贅沢がそこにあった。


私たちはオーナー夫妻と色々な話をした。どんな話をしたかはあまり覚えていないが、人見知りな私たちが何をそんなに話すことがあろうかというほど色々話をした気がする。ふと、この宿が月のうちの10日ほどしか営業していないことを知り、その理由を尋ねたところ、「森のクロモジの枝を摘んで、満月の光を浴びせてから炒めるのに忙しいんです」という答えが返ってきて、同行者と思わず顔を見合わせながら、えも言われぬ深い満足感を人知れず感じていた。

翌朝、朝食を終えて、私たちは夫妻の家に招かれた。そこはたった1部屋しかない小さな小屋で、整頓された部屋にはベッドと、衣類の入ったスーツケース、小さな書斎机だけが置かれていた。まるで修道院の一室のように静謐なその空間の中で、窓から差し込む朝日に照らされながら、夫婦の話をずっと聴いていた。どこで生まれ、なぜこの地にきたのか、どこへ向かっているのか。その人生観、死生観を聴きながら、なぜこんなところにこの宿があるのか、なんとなく朧げながら輪郭が見えてきたような気がした。


そして私たちは宿を後にした。男主人の運転する改造車に乗り込み、女主人が手を振って私たちを見送るのをいつまでも眺めていた。やがて街に出て、最寄りのバス停に降ろされ、私たちは別れを告げた。大山がそびえ立つ麓の、トラックが行き交う国道沿いの古い東屋に座りながら、先ほどまでの時間が急速に色褪せて、不思議な夢をみた翌朝のような気分になっていくのを感じていた。

正直、私は野菜とか食べない。クロモジの効用も、満月のエネルギーもよく分からない。内省も瞑想もあまりしない。だけども、自分とは異なる誰かが信じていること、愛しているもの、見えている世界、それを眺めることが私にとってのある種の贅沢な時間なのだと思っている。


2名で、1泊11万円の宿。正直、名宿と言われるような旅館に泊まることも、豪華な懐石料理を楽しむことも、最高級のクラシックホテルに泊まることもできる価格だと思う。決して軽率に他人にはお薦めできない。でも、空間に滲み出す人格と、その世界観に没入する、かけがえのない豊かな時間だったのである。



【研究結果:ホテルとは生き様である】

ホテルには、主人の気配が滲み出る。取り繕っても、必ず綻びが出る。だからこそ面白い。その空間を営む人が、どう生きて、何を考え、どこへ向かっていくのか。『人格』という際限のない深みがあるコンテンツを、五感で嗅ぎ取り味わう場こそが宿なのである。

龍崎翔子
龍崎翔子
ホテルプロデューサー
株式会社水星代表。1996年生まれ。東京生まれ京都育ち。2015年に水星を設立し、『メディアとしてのホテル』を掲げ、ブティックホテル「HOTEL SHE,」「香林居」や宿泊型イマーシブシアター「泊まれる演劇」をはじめ、全国で宿泊施設の経営を行う。ホテルの自社予約サービス「CHILLNN」の開発・運営や、宿泊施設の開業支援も行う。著書『クリエイティブジャンプ』。
生き様が現れているホテル
オーナーの「人にやさしくなれる場所をつくりたい」という想いから始まった宿