記憶に残るホテルや、旅先での体験、お土産、忘れられない味などなど・・・。旅にまつわるさまざまな思い出をほぼ毎日更新。本日は、歌人・伊藤紺による、記憶に残るホテルについて。
旅とホテルのミニコラム:ほぼ365日更新中!
海が見える部屋 |伊藤紺
2025.09.06
No.040

子どもの頃、夏になると海水浴に出かけて、海辺の宿に泊まるのが恒例の家族旅行だった。旅行に限らず、子ども時代に楽しい思い出はあんまりないのだけど、とはいえなにかしらの影響はあったのだろう、今でも海がすごく好きで、海が見える宿には特別な感情を抱く。
昨年の春、89歳になる祖母と、還暦を迎える母・叔母と一緒に、鎌倉プリンスホテルに泊まった。静かで品のいい空間で、客室からもレストランからも海が見える。「主役は海だから」とでも言うような控えめな設えにも惹かれた。
窓辺に座ってぼんやりと海を見る。家族旅行をしていた頃からもう20年以上が経っていた。一年前の祖父の死も、この旅行の底を流れている。膨大な時間の厚みに身を任せていると、ふと、昔よりずっと長く、ただ海を眺めていられるようになった自分に気づいた。
そこに海がある。決まった動きが微妙にかたちを変えながら繰り返される。そのことに退屈どころか、ゆっくりと興奮し、満たされている。30歳ってこういうふうなんだと、とどこか他人事みたいに思った。どんどん大人になりたい。そしてたくさん海が見たい。


伊藤紺
歌人
1993年生まれ。著書に歌集『気がする朝』(ナナロク社)、『肌に流れる透明な気持ち』、『満ちる腕』(ともに短歌研究社)。
海が見えるホテル
これからもたくさんの海の見える旅を。